浅葱色の夢行 (mukou)     前編






「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」



「・・・・・・・・・・・・・・・それで?」


昼過ぎから副長室で静かに続いていた沈黙の中の頑固者比べは、夕刻になり
どうやら兄分の方が弟分に勝ちを譲る事と決めたようだ。

それでも完全に兜を脱ぐのは悔しいのか総司に背中を向け、
仕事の手を止めぬままなのが土方らしい。



昼過ぎに「土方さぁん」と情けない声と共に部屋に駆け込んできた総司は、
そのままずるりと畳に崩折れるようにうつ伏せに張り付くと、ピクリとも動かず今に至る。
今日の一番隊の予定は夜番だったはずだから、普段であれば嫁馬鹿のこの男の事、
巡察準備ギリギリの夕刻まで休息所とも呼ばれる自宅で、嫁と先日生まれた息子を相手に
デレデレとだらしない顔で過ごしているはずだ。

その男が昼過ぎからここにいて、畳と一体化している。
その理由など誰に聞かずとも、誰もが判っているだろう。

最初は悲しさや寂しさ、苛立ちやもどかしさなど複雑な感情を行き来し、
土方にしても何とも判別がつけにくい空気を纏っていたが、
時間が経つにつれてその感情は怒りに統一されたようで、
今は背中を向けていてさえイライラとした空気が感じられた。


「黙ってちゃ判らねぇだろうが。何があったっていうんだ」

土方の言葉に小さな衣擦れの音が答える。
肩越しにチラリと様子を見てみると、今まで組んだ腕の中に埋めていた顔があちらを向いている。
どうやらプイと顔を背けたようだ。

「・・・はぁ、ガキじゃあるめぇし、いつまでそうやって拗ねてやがるんだよ」

そう。
この男は拗ねているのだ。
女子でありながら男と偽って新選組に入隊し、男顔負けの働きをしていた神谷清三郎こと
富永セイを娶ってからのこの男は、幾度この部屋でこんな姿を繰り返したろうか。
勝てもしないのに小さな事で嫁と衝突しては、いじけ、拗ね、ふてくされて
この部屋に逃げ込んでくる。

土方とて決して優しくなどしてやるわけではないが、それでも隊内での自分の立場を弁えているのか、
隊士部屋でこんな醜態を晒す事はないようだ、・・・と思いたい。



「おら、いい加減うっとおしいから言え!」

このままでは埒が明かないと土方が振り返り、総司の話を聞く体勢を作った。
それでも総司は腕から顔を上げぬまま、ぼそぼそと呟く。

「土方さんが絶対に私の味方をしてくれるって、約束してくれるなら話します」

「はぁ?」

「約束してくれますよね!」

土方の呆れたような声に、先刻より強い総司の言葉がかぶる。

「それは聞いてみなきゃ、判らねぇだろう」

「・・・だったら言わない・・・」

にべも無く言い放つと、そのまままた黙り込んでしまう。


ガキだ・・・真実、コイツはガキだ、と土方は深い溜息を吐きながら
責める方向を変えてみた。


「どうせまた神谷とケンカでもしたんだろう。いい加減、嫁にやり込められて
 屯所に逃げ出してくるのは止めろ。隊士達の手前も情けねぇだろうが」

「違いますよっ! 私は逃げ出してきたんじゃありませんっ!
 セイは斎藤さんが相手をしているから・・・」

がばりと顔を上げて反論しだした総司の様子に、土方は内心「かかった」とほくそ笑みながら続ける。

「ほぉ、斎藤に嫁を取られたもんで、拗ねてるってわけか」

「そうじゃなくて、斎藤さんは昨日の永倉さん達との話を聞いて来てくれた訳で!」

「新八?」

「・・・・・・・・・土方さん、私をハメたでしょう?」

ようやく気づいたのか、じとりとした視線を送りつつ悔しげに総司が呟いた。

「あ? 何の事だ?」

知らぬ振りを決め込んで、土方が先を促す。

「何にしろ言いかけたんだ。聞いてやるから続けろ」

「もぅ・・・本当に意地悪なんだから・・・」

ぶつぶつ言いながらも、ようやく総司が起き上がり話を始めた。





昨日、昼の巡察を終えた総司が夕刻に家に帰ると、裏庭から何やら楽しげな笑い声が聞こえていた。
いつものように里乃が正一を連れて遊びにきているのかとそちらに回ると、来客は永倉と原田だった。
それはいい。
この家は別名、新選組隊士寄合所と言われるほど幹部も平隊士も出入りする家だ。
今更誰が来ていようと驚く事も無い。

総司が目を剥いたのは、京の街中にしては広い裏庭で、セイが永倉を相手に
剣の稽古をしていた事だった。
女子姿のまま懐剣を手にして、木刀の永倉と対峙している。
着物の所々に土がついているのは、すでにかなりの時間稽古が続いている中で
幾度も地に倒れこんだ事を示している。

「何をしてるんですっ?」

総司の怒声に振り向いたセイが、明らかにマズイという顔をした。
ズカズカと音が聞こえる勢いでセイの前に立った総司が、懐剣を持つその手を掴み上げた。
その手の甲は何度か打たれたのだろう。
赤く腫れかけていて、手首から上にも白い肌に幾筋も木刀の跡が赤い線となって残っている。


「えっと、お帰りなさいませ。早かったんですね?」

セイの手を睨みつけるように見つめたままの総司にセイが声をかけた。

「早く帰ってこられて困るという顔ですね」

「そんな事・・・」

「一体どういう気ですか? 貴女は女子で私の妻なんですよ?
 今更剣を持つ必要がどこにあるんです?」

怒気を隠そうともしない総司の様子に永倉が割って入る。

「おいおい総司。少し落ち着けよ」

「永倉さんも、どうしてこの人の相手なんかをしたりするんです?
 私はもうこの人に剣なんて持たせる気は無いんですよ?」

「いや、だからな。神谷の話も・・・」

珍しくセイ以外の人間相手に激した総司をどうにか宥めようとする永倉の言葉も、
今の総司の耳には入らない。

「この家の主は私です! 私が許さないと言う事をするのなら、
 今後はこの家への出入りは控えて貰います!」

「いい加減にしてください!」

総司が永倉に言い切った瞬間、それまで掴まれたままだった手を
パシリと払ったセイが声を上げた。

「永倉先生に失礼な事を言わないでください。私がお願いしたんですから」

「だったらもう二度と・・・」

「私には私の考えがあるんですっ!」

総司の言葉を遮って言い返したセイは、濡れ縁で目の前の騒動を面白そうに眺めていた原田から
赤子を受け取るとそのまま室内に入ってしまった。




そこまで話した総司が大きな溜息を吐く。

「そのまま永倉さん達には帰ってもらったんですけど、その後は私もセイも口を聞かず。
 一晩寝て私の頭も冷えたので、一方的に叱るだけじゃなくどう説得しようかと困っていたら
 昼前に斎藤さんが来たんですよね」

「新八に頼まれてか?」

土方の言葉にこっくり頷く。

「斎藤さんは事情を聞いているはずだから、絶対に私の味方になってくれると思ったのに・・・
 私達が何も話をしていないと聞いて呆れた顔で・・・
 セイの考えが理解できるなんて言うんですよ?」

再び総司の頬がむうっと膨れた。


確かにセイが隊士だった頃なら別として、妻にした女子に剣を持たせたくないという
総司の気持ちは判らなくもない。
ましてなまじ剣術の経験があるセイの事だ、女子姿でも戦えるなどと思ってしまったなら
どんな危険に飛び込むか予想もつかない。
その意味では土方にしても剣など持たせたくないのだが・・・。
永倉はまだしも斎藤がセイの考えを容認したという事は、
何かそれなりの理由があるとしか思えず。

ふむ、と土方が腕を組んだ時、思考の中核にいた人物の声が聞こえた。



「副長、斎藤です」

「おぅ、入れ」

考えるよりここは本人に尋ねる方が早いと室内に呼ぶ。

「何か報告か?」

念のため、仕事の話ではない事を確認した土方に、斎藤がいつもの無表情のまま返す。

「いえ。そろそろ巡察の時間だというのに、副長室に入ったまま出てこない駄々っ子の事を
 一番隊の連中が心配していたもので」

斎藤が入室した途端、またしてもそっぽを向いて口を閉ざしてしまった総司に視線を流して
土方が喉の奥で笑う。

「あぁ、確かに拗ねたガキが駄々をこねて困っていた所だ。
 その件でお前にも話を聞きたかったんだがな」

「駄々っ子がきちんと話を聞かぬのが原因ですな」

総司を見る事もなく斎藤が続ける。

「新選組一番隊組長の妻である以上、あれはそうする必要を感じたようです」

それ以上の言葉を必要とせず、土方にはセイの心情が理解できた。
細い両手を精一杯広げて愛しい者達を必死に守ろうとする強く優しい女子が、
今頃ぷりぷりと怒りながら稽古を再開している事を思い、土方の頬が緩んだ。

「なるほど。だったら俺も神谷の肩を持つ方に回るか」

土方の言葉に抗議の声をあげようと総司が振り向いたと同時に。


「総司」


静かだがその口を閉じさせるだけのものを含んだ声だった。
黙った総司を見る目の中には、先程までの面白がった色は消えていて、
厳しい光を湛えている。

「お前はこの新選組の一番隊組長だ。俺や近藤さん同様、狙われる事も多い。
 当然神谷とてお前の妻として狙われるだろう、いつぞやのようにな」

セイが祐太を腹に宿していた頃の事件を言っている。

「素直に捕まって人質でいられる女じゃない事は自身が一番判っているやつだ。
 捕らえられお前の枷になる前に、刃に身を投げ出す事も平気だろうさ。
 だがそれ以前に自分が出来る事を考えたんじゃねぇのか?」

静かな土方の声を聞きながら総司は斎藤に視線を移すと、こちらも黙って頷いている。

「・・・それでも私はあの人の身に、これ以上刀傷なんてつけて欲しくないんです」

あの白い肌に今も残る幾つもの傷跡が頭を離れず、搾り出すような総司の声に
土方が苦笑する。

「お前の気持ちは神谷もわかってるだろうさ。だがあいつが守るべきものは
 もうお前だけじゃなくなっちまったからなぁ」

その言葉に、総司は今度こそ自分の考えの浅さを痛感した。






「セイ? 祐太? どこですか?」

あの後、黙って副長室を出た総司は夜間の隊務の間は仕事に集中していたが、
巡察を終えると一刻も早く家に戻る事だけを考えていた。
けれどこういう時ほど細々とした仕事が重なり、家路についたのは昼も過ぎた頃だった。

なのにようやく着いた家には人の気配は無く、ケンカをしたまま不機嫌に屯所に出かけた
自分に愛想をつかして出て行ってしまったのかと急に不安が心を占めた。


狭い家中を探してセイも祐太も居ない事を確かめた総司が慌てて戸口から
飛び出したところに、笑い含みの声がかかった。

「おや、沖田センセ。おセイはんなら出かけはったえ?」

玄関前を掃除していたらしい隣家の妻女であるマツが口元を押さえている。

「ど、どこに行くって言ってました?」

今にも走り出そうと、足踏みさえしそうな総司の様子に笑いを堪えるのも一苦労だ。

「なんでも壬生に・・・」

言葉の最後まで聞かず、「ありがとうございます」という声だけ残して
総司の姿は角を曲がって消えている。

呆気に取られたマツだったが、同時に盛大に噴き出した。



隊内と同様にこの界隈でも有名なのだ、沖田総司の嫁馬鹿は。
最初は壬生狼の、しかも人斬り沖田が越してくると聞いて心底嫌悪の思いでいたものだが、
これが予想に反した夫婦だった。

いつもにこにこ朗らかな夫と時に威勢良く、けれど裏表の無い素直で可愛い細君は、
周囲が呆れるほどに仲が良い。
この時代では考えられない事に、肩を並べて歩く事も普通なら、時には仲良く手を繋いで
どこかに出かける姿もあった。

何より近所に衝撃を与えた事は、鬼神とも呼ばれるこの夫がどうにも妻には
叶わないという事だった。
家の前を通りかかった人間が、中から漏れてくる
「ごめんなさ〜い」
「もう許してくださいよ〜」
「お腹空きました〜、私が悪かったですから〜」
等々いくつもの、およそ鬼の集団の幹部とも思えない情けない声を耳にしている。

一度などは何をやらかしたのか、家から閉め出されたらしく玄関先でしばらく中に
声をかけていた総司が、すごすごとトボトボと肩を落として屯所に向かう後ろ姿が
目撃されている。
目を丸くしてその光景を見守っていた近所の人間の前で、そうっと静かに戸口が開き、
中から顔だけ出したセイが、あからさまに寂しげな表情をした瞬間に
周囲に爆笑の輪が広がった。

凍える血が通っているかと思っていた男が、実は極めて普通どころか大層面白い人間だと、
近所に受け入れられた瞬間だった。

見られていた事に気づいたセイが首筋まで真っ赤にしていたのを思い出して、
マツは新たな笑いの発作に身を捩った。




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